チャクラを整える⑥2〜3
エネルギー色の玉
セッションが終わった後、チャクラがどんな具合だったかをお話しすることがあるので、のんびりですが、各チャクラの詳細を記事にしています。
前回のチャクラの回では、第二チャクラについてお話ししました。
“私とあなたが出逢ってひとつになりたいと願う気持ち”
一体感、というのは心と心がしっかりと向き合えたときに持てるものだし、それは肉体においても同じで、そこにこそ「満足」があり、その感覚は神聖な体験となります。
心と心が、と言うだけあって、このチャクラは感情とも深い関わりを持ちます。
オーラのリーディング中に、淡く色の付いた、ソフトボール大の、かわいい「玉」を見かけることが、たまーにあるのですが、その「玉」は、身体の周りをぽわ〜んと、まるで子犬のように戯れて漂っているから、守ってくれている何かなのかな?とずっと思っていたのだけれど、以前にご紹介した本(光の手/バーバラ・アン・ブレナン著)に、その答えがありました。
エネルギーフィールドの基盤の中で動いている色のついた玉のようなものが見えることがある。ときおり人間は自分の周りの空間にエネルギー色の玉を飛ばしているようだ。治療中に感情が解放されたときにそれがよく観察される。
なんとなんと。感情の玉だったのか!
エネルギーっておもしろい。そして、人が持つ感情は、とても興味深く、やっぱり、面白い。だって、解放された感情の玉が子犬みたいだなんて、面白すぎます。
そして、なんて愛おしいことよ。
第三チャクラは、私とあなたの境界線
「地に足の着いた 」という表現を聞くことがあります。これって、なんでしょうね。社会的現実に即した人を言うものなのかな?それとも、安定していそうな人を指して言うもの?
対比としてスピリチャルを取り上げられることがあるけれど、だからか、地に足の着いたスピリチャルなんて言い方も聞きます。ググると、こういった表現は男性に圧倒的に多いのですね。さくっと読んでみると、スピリチャルは現実逃避や妄想するためのものではない、現実社会を生きていくための知恵なんだ!ということのようです。
なるほど。現実社会に対応できてはじめてそれが「地に足の着いた」生き方であり定義なのか、と思う訳ですけれど…はて、さて?(このことは後ほど)
第三チャクラは、場所はみぞおちのあたりです。司る感情は、怒り、罪悪感、執着、価値観など。
力関係によるさまざまなドラマ(パワーゲーム)は、この第三チャクラが作り出すと思っています。
例えば。
恋愛が始まって、「あぁ、大好きな人と巡り会えて嬉しい、幸せだ」という気持ちがしばらく続いたあと、「彼を(彼女を)離したくない」という気持ちが混ざってくるのは、誰しも経験があるのではないかと思います。
執着のはじまりです。
この執着が過渡になると「こんなに尽くしているのに、どうしてあなたは◯◯してくれないの?」となり、更にもっとその気持ちが頑になっていくと「別れることになったら死ぬ!」と、お相手を縛り始めます。そしてそのお相手はといえば、彼女(又は彼)のいいなりになるしかない・・・。
これってどんな状態か。
「自分の力を相手にすっかりと委ねてしまっている」状態です。お互いにね。
でも、嫉妬とか執着ってとことんやったらいいと思っています(経験談。爆)
そうやっているうちに、その状況は自分が作り出している、というところへ必ず行き着くからです(行き着かなかったら…死ぬまでパワーゲームの只中に居ることになるでしょうが、それもまた人生、なのかも)。そして、そこまで辿り着きさえすれば、その嫉妬心、執着心でさえも「私の愛おしい感情の“玉”」となって、そのうちにフワフワと離れていきます。
幼少期の頃に「どうやったら生き延びられるか」ということと向き合わざるを得なかった人に「自分の力を相手にすっかりと委ねてしまっている」状態を作り出す傾向が多いように思います。
きっかけは重篤な病気かもしれないし、親の存在の薄さかもしれない。
ただただ周りに「反応する」しかなかった幼少期を過ごすと、自分の心の赴く方へ「行動する」という経験が少なくなってしまうことが原因のようです。
周りをがっかりさせたくない(そんなことしたら生きられない)、という想い。罪悪感、自責の念・・・。
そういった気持ちが主軸だと、周りの人に合わせた自分像を作っていこうとするしかないだろうし、その自分像に自分が届かないことがあると、それはイコール自己評価の低さへと繋がっていくだろうと思います。
これってかなりの緊張を強いられること、想像できますよね。
人は緊張状態が続くとそれがストレスとなり「怒り」へと繫がってしまいます。
「怒り」の正体って結構けっこう根深いところにありますから、解くのに少し時間がかかります。
東洋思想では、感情と臓器は密接な関係があると言われていますが、「怒り」は「肝臓」と関係しています。
わたくし、中学生のころ肝炎を患い入院したことがありまして。今から思えば緊張した毎日を過ごしていたと思います。そして、密かに「なんで??」って怒っていた、ように思います。
部活動では、間違えたり失敗したら大人である先生からビンタや蹴りが飛んできたし、先輩たちによるいじめもありました。環境におもねるしかない自分の弱さや幼さも嫌だった。だから、自己評価もものすごく低かったと思います。
結果、肝臓の細胞が半分以上死んでいる、と医師に言われて入院を余儀なくさせられたわけですが、正直、体の辛さよりも「これで学校へ行かずに済む」と、ホッとした方が大きかったように思います。
「怒り」のそのずっと奥に「恐怖」があったことは大人になってからわかったことです。
緊張状態は、「心配性」も作り出します。
「心配」と繋がりのある臓器は、「胃」、「脾臓」、「膵臓」。消化不良に悩まされていたり、胃炎や糖尿病、免疫系のことでお悩みの方。少し、昔を振り返ってみるのも治療のひとつとなるかもしれません。
そして、全ての元となっている「緊張」を解くことを考えてみることです。
どうやったら自分はリラックスできるのか?を真剣に探る。それと同時に、自分の素敵な部分をリストアップしてみること。自分のダメな部分は結構すぐに(しかもたくさん)数えられるのに、できることや頑張ったことを数えるのが難しい人はとても多いです。
さて。「地に足の着いた」モンダイですが。
第三チャクラがしっかりしている人、というのは場当たり的ではなく、自分の考えで行動できる人であり、自分と他者との間の境界線をちゃんと理解している人。そういう人は他人の人生を尊重することができるし、心から人に優しくできます。
こういう人が「地に足の着いた」生き方なんじゃないかな〜って、私は思うのです。どんなに社会的に認められている人でも、どんなに稼げている人でも、心がいつも緊張状態であるならば、それはいつか苦しさが爆発して全部手放そうとするか、病気になるのではないかな。
け、れ、ど。
第三チャクラをしっかりと整え、その上で「世間に認められたい」や「めっちゃ稼ぎたい!」は、アリ( •̀∀︎•́ )✧︎ですよ!
♪「ありの〜〜〜ままの〜〜〜姿見せるのよ〜〜♪」という歌が何年か前に流行りましたけれど、つまりは、あるがままの自分を知り、受け入れるところからしか始まらないのですよね。あの歌を聴いて元気になるのは第三チャクラだろうと思います。
皆さんは、「地に足が着く」をどう考えますか?