生と死の狭間(あわい)のおはなし
ブッダですら「死んだ後のことは死んでみないとわからない」と、不可知論の立場をとったという話ですから、そこらへんのことについては、私もほんとうにわからないとしか言えないですし、実際そう思ってます。
ただ、最近こっそり密かに思っていることがありまして。
それは、身体を失ってすぐの人、人?というか、魂、かな…が、存在する、いわゆる死後の世界へ行く手前の、あわいの世界みたいなものがあるんじゃないかな、ということ。
それがほんとうかどうかは、やっぱり死んでみないとわからないのだけれど、私の中に一応の体験に基づく見解があって、今日はそのあたりのことを書いてみたいと思います。
死者の気配を感じたことがある人は、実は少なくないんじゃないかな、と、思うんですよ。例えば、とっても可愛がっていたペットが死んでしまったすぐ後に感じる可愛いあの子の気配を。
遠くに行ってしまったのにより近くなったような感覚。(もちろん寂しいことには変わりないけれど…)
私の場合は気配の他に匂いも感じます。そこまでくると、気のせいとか言っちゃうのが申し訳ないくらいなので、逆にじゃあどうして姿を見せてくれないのかと泣けちゃいますが、なんてことない、私の方にその力がなく。
リーディングをメインでやっていた頃、ごくたまに、「◯年前に死んだ父(とか母とか)は何か言ってませんか?」と聞かれることがあって、でも、そういうときのリーディングでは私の場合は、かつて生きていらした頃の記憶にしかアクセスできてないです。
でも、リーディング時ではなく、ふとしたときに、電話で話をするような感じで、死者から話しかけられたことというのは何度かあって、それは、亡くなって間もない方ご本人か、その亡くなっ方に関わる存在限定なのです。
先に書いた匂いや気配も、やはりそう。死の後の一年以内の話。
あ、その亡くなった方に関わる存在というのは、死んだら先に逝ってしまった親しい人が迎えが来る、という話は昔からありますよね。あれです。
そう思うのは、迎えに来た人に呼び掛けられたことがあったからなのですが、長い付き合いの友人のお父さんが亡くなったときに、お礼方々「今までありがとうございました」とお祈りしていたところに、突然、残された家族について喋り出す女性の声があったのでびっくりして友人にその女性のことを伝えたところ、若くして亡くなった妹さんがいたとのことで、彼女が父を迎えに来てくれたんだ、と涙ぐみ(家族をよろしく、父は私と一緒です、といった内容だった)、あー、なるほど、そういうこともあるのか…と思ったことがあったからなのでした。
そこで思ったわけです。私が死の先にアクセスできるのは、時間と空間の概念の限りなく薄いあわいの世界の存在だけなんだぁ、と。
あわいの世界から更に次の世界へ旅立つときというのは、たぶん、きっと、誰かが迎えに来てくれたときに一緒に行くか、若しくは自分が設定したタイミングというのがあるなのではないかな、と思ってまして、それは例えば、愛する人が自分の死を受け入れたら旅立とうと決めている、みたいなことです。
愛する人に先立たれてしまった側からすると、その死を自分の中に受け入れることはとても難しく、悲しみに埋もれてしまいそうになってしまいますが、ここで一つ言えることがあって、亡くなってしまった大切なあの人も、その痛みをちゃんとわかっているということです。
死んでしまった彼らには、残された人が自分の死を受け入れるのをじっと待つための時間というのがある気がするのです。なぜなら、私に話しかけてくる言葉は、残された人の話ばかりだからです。心配なのです。
死を受け入れてもらえたとき、彼らは安心してあわいの世界から旅立つ決心がつくのかもしれません。
ちなみに、聞こえてくる声は殆どが一方的に話をしてくる感じです、が、質問をすればそれに答えてくれるときもあります。
そして、わりと元気…って言ったら変なんだけど、ハッキリとしていて少し興奮しているような、そんな印象があります。心配はあっても悲観的ではない、という感じ。
「病気でもう先は長くなく、それならばせめて楽に旅立てるようにヒーリングをお願いします」と頼まれることがときどきあって、何度かそうやって死を前にした方にヒーリングをするという経験を重ねるうちに、「あぁ、そういうことなんだな」とわかったことがあるのですが、死の直前の方のエネルギーは何やら楽しげなんです。楽しげ、と書くと語弊がありそうなものなんだけど、んー、なんというか軽やか、、そう、軽やかなんです。
だから昔の私は、「まだ生きる気満々なのか、エネルギーは満ちていて軽やかです」とご家族の方にお伝えしたこともあったのですが、どうもそうではなくて、それは死の準備ができてきた証拠なんだな…と今は思うようになりました。当人の顕在意識ではそうでなくとも、です。
もちろん、お身体は少しずつしんどくなっていく一方なので、だから、ほんの少しでも楽になっていただきたいと思ってヒーリングするのですが、こういったヒーリングをするたびに何か不思議な気持ちになります。
死は容赦なく誰の元にも訪れ、愛する人とお別れをしなくてはならないときが必ずやってきてしまいます。
そう知ってはいても到底前もって準備できるものでもないし、今を精一杯、誠実に生きていくほかないのだけれど、私たちがこの世で築いた絆というものが死によって突然ぷっつりと切れてしまうものではない、という私のひとつの見解が、もしかしたら誰かの役に少しはたつかもしれない…そんな風に思いつらつらと書いてみました。
これらは私の数少ない経験のお話なので、これが全てということではもちろんなく、いろいろなパターンがあるのだろうと思います。
少なくとも、私は彼らの声に救われたことがあるので、こうやって書くことでその声に少しでも報えたらいいなと、祈る気持ちでいっぱいです。
冬至の前後に不思議なことが続いたのでその流れで今日こういった内容のことを書いているのですが、そういえば今日はクリスマスイブ。
クリスマスって、かつては死者をもてなすお祭りだったのですよね。
今ふと思い出しました。
ハッピークリスマス!✩︎⡱
いま繋いでるその手を、命の温かみを、心から愛せますように。
その手があなたから離れてしまっても、決して色褪せることのないお互いの愛情を、その心の奥の静寂の中で、感じられますように。
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